大学生が走るだけなのに、なぜこれほど人気なのか…箱根駅伝が「正月の風物詩」になった恐るべき理由
1: 征夷大将軍 ★2023/11/05(日) 19:30:50.50 ID:1Kv0VSJT9PRESIDENT Online
生島淳
https://president.jp/articles/-/751952023/11/05 12:00
■箱根駅伝は「ラジオで聴くもの」だった
昭和50年代の日本のお正月は静かなものだった。お店はすべてお休み。宮城県の気仙沼なんて、シーンとしていたものだ。日本全国、いつから元日でもお店を開けるようになったのだろう? 静かなお正月が懐かしかったりする。
わが家は食堂で、大晦日までお店をやっていたし、滅多になかったけれど、望まれれば元日にも出前に行ったりしていた。自分も正月からラグビーや駅伝の取材に行くのが苦だと思わないのは、母親の背中を見ていたからかな、と感じる。好きな仕事、求められている仕事であれば、お盆もお正月も関係ない。
そんな環境で育ち、私は昭和52(1977)年のお正月から箱根駅伝を聴き始めた。
当時も東京の民放局は中継をしていたようだが、ラジオの中波(といっても、もう若い人には通じない)は電波の性質として昼間は遠くに届かず、宮城では夜にならないと東京の放送局は聴けなかったから、もっぱらNHK第一で聴くのが毎年の楽しみになった。
■早稲田大学の瀬古利彦
小学校低学年の時から、私はすでに東京六大学野球、ラグビーの「耽?の沼」に足を踏み入れていたが、1974年に法政大学に進んだ次兄が「今度、早稲田に瀬古というすごい選手が入ったんだ」と教えてくれた。一浪して1976年に早稲田に入った瀬古さんは、大学1年の箱根駅伝で一時は順位を大きく上げたが、後半に失速して順位を落とした。それでも「瀬古」という響きがとても良くて、私の記憶のなかに瀬古利彦という名前が刻まれたのである。
のちに、瀬古さんに大学1年生の時の話を聞いたことがある。
「あの時は苦しかったよ。最初はいい調子で入れたんだけど、2区が25.2kmもある時で、最後の権太坂で足が止まってしまったんです」
瀬古さんが、解説席で2区の走りについて、序盤はわりと慎重に入るランナーを好むのは、自分の経験が影響しているのかなとも感じた。それは渡辺康幸監督も同じだ。
瀬古さんは、このあとの2月に京都マラソンに出場して2時間26分00秒で10位に入り、新人賞を獲得している。
「箱根駅伝も苦しかった。京都マラソンはもっと苦しかった。もう二度とあんな苦しい思いはしたくない。それでいっぱい練習しなくちゃいけなかったんだ」
瀬古さんはそう振り返っている。そして1977年の福岡国際マラソンで5位に入り、日本中に名を知らしめた。エンジに「W」のユニフォームがなんともカッコ良かった。
瀬古さんは年が明けて箱根駅伝の2区を走っている。この時は法政の成田道彦(のちに法政の監督になる)に区間賞を譲った。なんだか悔しかったのを覚えている。それでも瀬古さんは気にしていなかった。
※以降出典先で
他の日だったら誰も見ねえよ
テレビ局がせっせと育てたからだよ
サスケだの鳥人間だってそうだろ?
野球よりつまらんからな
チャンネル合わせないからねぇ
面白くなかったら流す
数字の為に世界のどこでもやってない人気の無いモノを人気にする
ある意味マスコミしか出来ない芸当だな
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